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伝説エピソード⑥インドネシア大統領と運命の出会いを果たす
高級クラブで働いていたデヴィ夫人は友人女性と一緒に映画を見るために待ち合わせをしていた時に運命の出会いをすることになります。
待ち合わせをしていたところに、インドネシアのスカルノ大統領の付き人の方が来て「(大統領が)上でお茶会をしているので、そこでお待ちになられませんか?」と声をかけられたそうです…!
誘われた会場に向かうとスカルノ大統領を正面に華やかなパーティーが行われていました。
スカルノ大統領に見初められたデヴィ夫人はその後、「2週間ぐらいインドネシアに遊びに来ませんか?」と誘われインドネシアへと渡ることになります。
そうだ、外国に行ったら、何かひらめきがあるかもしれないわ。
幼いころから世界に飛び出したい願望もあった私は、大統領のお誘いを受けることにしました。
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一夫多妻制のインドネシアの大統領にとってデヴィ夫人は最初こそ愛人でしかありませんでした。
しかしデヴィ夫人の真面目さや頭の良さにスカルノ大統領が惚れ込み結婚、デヴィ夫人は第3夫人となりました。
私のインスピレーションとなって力の源泉となり、私の人生の喜びとなってください
こんな美しいプロポーズの言葉、100年行きても聞かれないだろう。
天の定めと思った。
デヴィ夫人とスカルノ大統領の年の差はなんと39歳!
プロポーズの言葉がいくら素敵だったとはいえ躊躇はなかったのでしょうか。
何にでも挑戦的で好奇心旺盛なデヴィ夫人からは即決しているイメージを抱いてしまいますが、インドネシアへ渡ることや結婚を決めるのに悩んだことはないのでしょうか。
その辺のことについてもいつか聞いてみたいところですね。
それにしても母国を出て愛人から正妻に上り詰めたデヴィ夫人の強さと行動には感心するばかりです。
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伝説エピソード⑦インドネシア語で”聖なる宝石の女神”を意味する名前をもらう
スカルノ大統領と結婚しインドネシア国籍へと変わったデヴィ夫人は”根本 七保子”からインドネシアでの名前をスカルノ大統領からもらいます。
名前の意味は”聖なる宝石の女神”。
とても素敵な名前です。
美しいデヴィ夫人にはぴったりですね。
大統領がどれだけデヴィ夫人を愛していたのかが想像できますね。
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伝説エピソード⑧最愛の母と弟との別れ
実はデヴィ夫人は結婚してすぐにインドネシア国籍を取得したわけではありませんでした。
全ては日本にいる母親と弟のために動いていたデヴィ夫人。
インドネシアに渡ったのも家族への思いがあったのかもしれませんね。
最後の最後まで家族のために動いていたデヴィ夫人の優しさには驚かされます。
デヴィ夫人の強さは家族に対する愛から出てきたものでもあるのかもしれないですね。
そのため結婚してからも日本国籍のままでしたが、デヴィ夫人が22歳の時最愛の母親と弟を亡くしてしまいます。
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デヴィ夫人のスカルノ大統領との熱愛が報じられたことをきっかけにマスコミが家に押しかけたことで母親は心労で倒れてしまったと言います。
また、弟も母親の後を追うように自死してしまったのです。
家族のために動いていたことが家族を苦しめてしまうことになったとは無念で仕方ありません。
心優しいデヴィ夫人は自身を責めたことでしょう。
デヴィ夫人は最愛の2人を失ったことをきっかけに日本への未練を断ち切りインドネシア国籍を取得したのでした。
デヴィ夫人はスカルノ大統領を常に支え精力的にバックアップをしました。
インドネシアの宮殿ではお手伝いさんが30人程度もいたと言います…!
裕福な暮らしになっても懸命に大統領を支えるなどデヴィ夫人の人柄の良さが伝わりますね。
家族に対する愛情がスカルノ大統領にも芽生えていたことが分かります。
”愛情”こそがデヴィ夫人を動かす大きな力になっていると考察できます。
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伝説エピソード⑨第一子となる女の子を日本で出産しフランスへ亡命する
スカルノ大統領との幸せな結婚生活も長くは続きませんでした。
1965年に始まったインドネシアで政変の軍事クーデターが起きてしまったのです。
そんな中、1967年にデヴィ夫人はスカルノ大統領との子を妊娠。
スカルノ大統領が失脚し自身にも危険が迫っていたため日本で第一子となる女の子を出産しました。
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スカルノ大統領にとっては8番目となる子どもでした。
8番目の子どもとは言え愛するデヴィ夫人との子どもはまた別格だったのではと推察します。
正式名は”Kartika Ssri Dewi Soekarno”で「カリナ」と呼ばれています。
家族愛が強いデヴィ夫人。
娘が生まれてからは守らなければという使命感からさらにデヴィ夫人の強さに繋がったのではないでしょうか。
出産後もインドネシアには戻れる状況ではありませんでした。
そのため、デヴィ夫人は産後の体力回復後に幼い娘を連れて亡命者に比較的寛容なフランスへと渡りました。
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亡命とは言え幼い我が子を連れての見知らぬ土地へ渡ることに少しの不安はあったのではないでしょうか。
それでも明るく強く生きる姿はデヴィ夫人らしいとも言えます。
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