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鬼畜エピソード⑭日生学園の連帯責任が過酷すぎる!
日生学園では連帯責任も異常なものでした。
脱走したものがいると分かれば同じ学年のものは全員コンクリートの上で正座を強いられます。
時間はどれだけ長くても関係ありません。
実際、浜田さんは登校した際に「正座!」と言われそのまま夜の8時まで続いたと驚きの体験を口にしていました。
登校は9時だったようなので時間にして11時間…。
正座をさせられた理由については分からなかったと言うことから脱走以外にも日常的に連帯責任として正座をさせられていたことが考察できます。
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鬼畜エピソード⑮日生学園被害者の会を組織され国会でも取り上げられていた
生徒間の暴力やいじめだけでなく先生からの厳しい体罰、さらには先生の間でもいじめや暴力があった日生学園。
異様な学校生活に不満が爆発した先生は1985年に内部告発を行いました。
指導の域を超えた暴力やいじめによって自殺した生徒が複数いること、脱走は日常茶飯事であることが報道され日生学園は一気に注目を集めることになりました。
報道を受け暴力や自殺などの事件が表面化しましたが、学校側の対応が見られなかったことから国や県が対応にかかることになりました。
国会で議員がいじめや暴力などを取り上げたことから学校に国政調査が入りました。
また、日生学園がある三重県も学校側の改善がみられるまでは私学助成金交付の助成金を止めるという行政措置をとりました。
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創立されてから内部告発が行われるまで何も問題が明るみに出なかったことが不思議なようにも思いますが…。
そこまで公にテレビで放送されたのにも関わらずすぐに対応をしなかったと言うのは驚きですね。
校長の一貫した姿勢とも言えるのでしょうか。
大きな事件が起こってしまっていたことに変わりはありませんがこれ以上の被害が広がらないためにも遅くとも指導が入ったことはひと安心ですね。
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日生学園のスパルタ教育が度を越えている理由はなに
日生学園は創立者である青田強氏が「太陽のように生きる人を育てん」という思いからその名を付けました。
そんな校長は生徒に対して
「全力を出して”死点”に差しかかったとき、死力を尽くして”死点”を突破した者だけが自己を向上させ、新しい自己を誕生させ、ことを成し遂げることができる」と教えていたようです。
常に全力を強い極限状態に追い込み限界を突破することで人として強い人格を完成させることができると考えていたのでしょう。
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その状態に達するためにも学校生活だけでなくプライベートまでも厳しく取り締まっていたのだと考察します。
実際、素行の悪い人達も日生学園を卒業するころには更生されていることが多く大学に進学する人も少なくなかったと言います。
やり過ぎの部分はもちろんありますが、素行の悪い人にとっては人の痛みや苦痛を知るきっかけになったのではないでしょうか。
超スパルタな3年間を過ごした卒業生は自衛隊の訓練でさえも楽勝と思えるほどの忍耐力が付いていると言います。
少年院というよりもはや収容所と言われる日生学園での生活は親でさえも手が付けられない素行の悪い人にとっては社会人になる前に更生出来る唯一無二の施設だとも捉えることはできますね。
通っている本人にとっては地獄の3年間であることは間違いないでしょうが、親からすると犯罪を犯す前にどうにかしたいと思う気持ちも少なからずあったのかもしれません。
そう考えると日生学園に多くの生徒が集まっていた理由も納得です。
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浜田雅功さんはテレビで高校の名前を口にしていない!?
厳しすぎる日生学園第二高等学校で副学寮長まで上り詰め卒業している浜田雅功さん。
その母校については有名な話ですが、実は浜田さん自身は日生学園出身だと言うことをあまり話していません。
実際、相方である松本さんも浜田さんから卒業した高校の名前は聞いていないと話しているほどです。
当時の事件とも言われるほどの厳しい学校生活についてもしかすると浜田さんは笑いにしてはいけないことと感じているのかもしれないですね。
ただ、人が話していることや聞かれたことには赤裸々に話していることから隠しているようなことは全くなさそうですよ。
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日生学園で鬼畜な高校生活を過ごした有名人は?
超スパルタの全寮制高校である日生学園で過ごした有名人を紹介します。
浜田雅功 (お笑いタレント) | 日生学園第二高等学校の第二期生として入学。 あまりの厳しさに一度は松本さんの力も借りて脱走するも最後は副学寮長まで務め見事卒業。 先輩のリーダー格の人に気に入られ先輩からのしごきは少なめで済んだそう…。 | |
今田耕司 (お笑いタレント) | 先生や先輩からの厳しい指導に耐えられずトイレの窓から脱出し山2つ超えて脱走を成功。 先生に殴られ一度は高校を続ける決意を示すも、帰省をきっかけに退学を決意する。 | |
尾崎瑛一郎 (サッカー選手) | 幼い頃からサッカー少年だった尾崎さんは「無名の高校を強くしたい」という思から、サッカー部を強化指定クラブにしたばかりの日生学園に入学。 3年生では主将を務め日生学園を初の全国高校サッカー選手権大会へ出場へ尽力した。 | |
伊藤元昭 (実業家) | 高校卒業時にお金を儲ける手段として経営者になるか芸能界に入るかで迷うも経営者として進路を進める。 起こした事業で年商100億を達成し俳優や歌手など多方面でパワフルに活躍している。 | |
鮫島秀旗 (野球選手) | 日生学園では野球部に所属するも甲子園出場は叶わず。 それでもドラフトにてヤクルトスワローズから6位指名を受け日生学園初のプロ野球選手となった。 |
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どの世界でも並大抵の努力では成功を勝ち取ることが難しいですよね。
その点、日生学園で青春時代を過ごした彼らには超スパルタな環境の元で生き抜く力を身についたのではないでしょうか。
忍耐力や行動力、体力や持久力などあらゆる面で”普通”が一般よりも高いところに位置し努力を続ける力が培われたのではないかと考察します。
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