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日生学園第二高等学校の偏差値や難易度は?
日生学園の偏差値は39ととても低かったです。
というのも、当時は校内暴力が社会問題となる程の時代であり問題児でも入学できる高校とし偏差値を低くしていたそうです。
入試は行われており内容も小学生レベルだったということですがそれでも名前が書けていれば合格できたと言われています。
どの様な生徒でも見放さず受け入れ、入学してから厳しく指導し更生させていたと言うことですね。
親の手にも負えない不良少年たちも立派に更生させていくことから創立者の青田強氏は保護者からは絶大な信頼を獲得していました。
青田強氏が亡くなってからはグランドの一番高いところに銅像が建てられるなどその存在感はいつまでも健在だと言えます。
当時を知らない私からするととんでもなく怖く常識外れとさえ思えてしまう人でも影響力は凄まじく厳しい中にも核とした信念で指導に徹していたことが考察できます。
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日生学園第二高等学校の現在の姿とは?
当時の不良でさえも恐れる程の日生学園第二高等学校。
1965年に青田強氏から息子の青田進氏へと世代交代したことをきっかけにスパルタ教育ではなく、大学進学を目指した学業重視の教育に方針を変えていきました。
創立50周年を迎えた際には日生学園第二高等学校から「青山高等学校」と名称を変更し新たなスタートを切りました。
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現在も全寮制を取っていますが当時のような4時起床や休日がないような分刻みのスケジュールはなく生徒たちが伸び伸びと過ごせる環境になっています。
現在の偏差値も39と低いですが、不登校の生徒やいじめにあった生徒など幅広く受け入れ入学してから指導していくという方針は変わっていません。
当時は素行の悪い生徒が多くを占めていましたが、現在は不登校だった生徒が9割程度を占めていると言われています。
恋愛禁止など当時の面影が残っている部分はありますが、自由時間も確保され進学実績もあることから大きく校風が変わったことが見受けられます。
開校当初から偏差値が低く誰でも入れた日生学園第二高等学校(現・青山高等学校)。
その意味が例え素行が悪くとも、不登校であろうとも受け入れ社会に出れる人を育成するという考え方はとても素敵なことですね。
実際、素行が悪く厳しく指導され更生した学生や不登校から大学へ進学した学生までいます。
塞ぎ込んでしまった人や荒れている人が社会で活躍できるように更生させることは簡単なことではありません。
そこに力を注いで多くの人を立ち直らせてきた校長には理解しがたくとも強い気持ちがあったことは推察できますね。
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まとめ
浜田雅功さんの出身校である日生学園第二高等学校の鬼畜エピソードを紹介しました。
- 高校という名の更生施設だった
- 入学直後から丸坊主にされるなど自分の意思は一切通ることはない
- 24時間私語禁止
- 学校が終わってもプライベートと呼ばれる時間や空間は一切ない
- 常に全力でいることを強いられる
- 娯楽や嗜好品は一切なし
- 食事ですら質素過ぎて楽しみなものではない
- 風邪や病気にかかっても病院には行けない
- 脱走するのも退学を決意することすら命がけであった
- コンクリートの上に正座させられる連帯責任が酷すぎる
鬼畜すぎる学校生活が問題になり国会で議題に上がると国や県が介入するほどの社会問題となりました。
国や県からの行政指導があったことから現在は普通の学校生活が送れる高校と変貌を遂げていますが、当時の厳しさは異様とも言えるほどでした。
日生学園の創立者の青田強氏の教えである
「全力を出して”死点”に差しかかったとき、死力を尽くして”死点”を突破した者だけが自己を向上させ、新しい自己を誕生させ、ことを成し遂げることができる」が行き過ぎた学校を作ったのだと思われます。
素行の悪い人を更生するためにはこれぐらいの厳しさがあってもいいという意見と、いくらなんでも人権を無視しすぎだという意見がある日生学園。
2015年には「青山高等学校」と名称が変更され校風もガラリと変わっています。
新たなスタートを切った青山高等学校ですが開校当初から変わらず偏差値は39と低くどの様な子どもも受け入れる体制を取っています。
開校当初から変わっていない部分を見ると、当時からどの様な子どもでも受け入れ社会に出られるよう人として強い人格を作るという創立者の思いが立派なものであったことが分かりますね。
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